なぜ幸せではないのか

人はなかなか「幸せ」を感じることができません。今日のブログでは「どうして人は幸せを感じることができないのか」そして、「どうしたら幸せを感じることができるようになれるのか」について、お伝えします。

人は「幸せ」というものに対して貪欲です。とくに人生の節目には、幸せな選択ができるかどうか真剣に悩みます。たとえば「○○さんと結婚したら、幸せになれるかな」とか、「3社から内定をもらった。どの会社に就職したら将来幸せになれるかな」といったようにです。

こんなにも追い求めている「幸せ」ですが、人は「幸せの本質」を本当に理解しているかというと、案外そうでもありません。
なぜなら「幸せ」とは客観的事実ではなく、第三者から見て判断できないからです。

少したとえ話しをしましょう。

誰もがあこがれる一等地に住んで、高級車に乗り、シーズンごとに高級な服を買い、エステに通って、一流レストランでいつでも食事をすることができる。でも、満たされない気持ちや、むなしさを感じていたら、その人は自分のことを「幸せ」と思っているでしょうか。おそらく「ノー」でしょう。

もう少し近いたとえ話しをしましょう。

水道をひねったら飲み水が出てきて、夜になればスイッチを押すだけで照明がつき、お風呂もボタン一つでお湯がたまり、飢えることなく三度の食事ができる。

このブログを読んでくださっているほぼ全員が、上記に当てはまると思います。
でも、読者のみなさん全てが「幸せだ」と感じてはいないでしょう。

ほんの少し前まで、水は井戸まで汲みに行っていました。台所にある瓶に水をいれておかないと、飲み水に困ります。お風呂に入ろうと思ったら、湯船がいっぱいになるまで、バケツで水を汲まなくてはいけません。水がたまったら、薪に火をつけて、お湯を沸かします。火が消えたり、沸かし過ぎにないように気を配らなくてはいけません。飢饉や戦争がなく、飢えの苦しみから解放されたのなんて、人類の歴史でごく最近のことです。

昔の人たちが私たちの暮らしを見たら、まるで王族の生活のように見えるでしょう。
それなのに私たちは「幸せだ」とは感じていません。

このように「物の豊かさ」と「幸せ」は必ずしも一致しないのです。

では違う面に光を当てて、再びたとえ話しをしましょう。

あなたの両親は二人とも健在です。パートナーは仕事に励んでいます。子供たちは学校に行き、部活を楽しんでいます。あなたはパートとして働いています。夕方には家族そろって夕食を食べます。

なんて幸せなことでしょう!いえ、違います?

「母が用もないのに長電話をしてきます」
「パートナーは私の話を聞いてくれません」
「子供たちは勉強をしないで、ゲームばかりしています」
「パート先に嫌な人がいます」

きっとそう答えるでしょう。

人はどうしても「不足していること」に目が行きがちです。そして、その不足していることをなんとかしたいと思って、頭の中をいつもいっぱいにしています。これが「私たちが幸せを感じることができない原因」なのです。

幸せを感じたいのなら、不足していることに目を向けるのではなく「満たされていることに目を向ける」べきなのです。

たとえば、
「母は元気でなによりです」
「パートナーはゴミ出しをしてくれます」
「子供たちは私が作った食事をおいしいと言って食べてくれます」
「お仕事をさせてもらえています」
というようにです。

満たされていることに目を向けると、日々の暮らしが、たくさんの喜びにあふれていること、そして、それらはまるで奇跡のようだということに気がつくはずです。

ではまとめましょう。

「私たちが幸せを感じられないのは、不足に目を向けているからです。
幸せを感じたいのなら、日々当たり前と見過ごしているひとつひとつに感謝をすることです。」

たったこれだけです。

「幸せ」は誰か(人や会社)がもたらしてくれるものではありません。感謝できるかどうかにかかっている、このことをしっかりと心にとめておけば、幸せな人生を送ることができます。

感謝する気持ちになれませんか?
そういうときは、スピリチュアルカウンセリングで、胸のつかえを解いてみてはいかがでしょうか。

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