生体移植と移植

臓器を提供する側に着目をして、生体移植と移植は霊的にどのような意味があるのかについて書きます。

話を進める前にまずは「生体移植」と「移植」の違いを理解する必要があります。

「生体移植」は臓器提供者が生きている場合を指しています。

それに対して、「移植」は臓器提供者が死んでいる場合を指します。この場合の死は心停止をしている場合、そして心臓が動いている脳死の場合の2つがあります。

まずは「生体移植」について

生体移植は臓器提供者が生きていますので、提供者の意思があります。「家族のために役立てたい」と願って、自らの臓器を提供するのであれば、それは無償の愛です。

私たちは、自己愛を克服するために現世界に生まれてきました。自己愛の対極にあるのが隣人愛です。そして、究極の隣人愛は無償の愛です。

極端な言い方をすると、臓器提供者が生まれてこの方、自分のことばかりで、人のためになるようなことを何一つとしてしてこなかったとしても、生体移植をすることによって、今までの自己愛の全てを打ち消すくらいの隣人愛になります。

では、同じ生体移植でも、お金目的の場合はどうでしょうか。

この場合、臓器提供者は「誰かのために」行ったのではなく、「お金のために」行ったので、無性の愛にはなりません。それどころか、霊界の愛によって維持してきた肉体を金銭目的で傷つけたことによって、大きな課題を残すことになります。

次に「移植」の場合です。
心停止と脳死は分けて考える必要があり、さらに臓器提供者の意思があるかないかでも分ける必要があります。

心停止の移植の場合で、生前本人が「自分が死んだら、臓器を提供したい」と意思を示していたとき。

誰かの役に立ったのは事実ですが、霊的観点から見ると、無償の愛にはなりません。肉体が不要になり、それを提供しただけなので、魂の浄化や向上の面ではさほど意味を持ちません。

しかし、しない方が良いと言っているのではありません。自分の肉体を誰かの役に立てて欲しいと思う気持ちは素晴らしいものであり、それを否定するものではありません。

心停止の移植で、生前本人の意思がなく、家族が臓器提供を決めた場合。

臓器提供者は霊的にプラスにもマイナスにもなりません。

しかし、意思決定をした人は相応の意味を持ちます。なぜ臓器提供の意思決定をしたのか、死亡した家族を自分の所有物のように思っていたのかなど、多くの着目すべき点があります。そして、その内容によっては、課題を残すことになります。

最後は脳死による臓器提供です。

以前のブログ「心停止と脳死」でも書いた通り、霊界は脳死を人の死と考えていません。医学的には移植ですが、霊的には生体移植です。

生前の本人の意思によって、移植が行われる場合。
これは無償の愛の変則版です。

本人の意思がない場合。
臓器提供者としては、自分の意思なく臓器を取り出されたことを受け入れることができるのか、意思決定をした人に対して、どのような感情を持つのかといった多くの難題と向き合うことになります。

そして、意思決定をした人は、なぜ臓器提供の意思決定をしたのか、臓器提供をした家族を自分の所有物のように思っていたのかなどが問われます。それに加えて、家族の命を絶ってしまったこと、その家族と今後、和解ができるのかなど、難しい課題に取り組んでいくことになります。

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