カテゴリー別アーカイブ: 宗教

信仰

シャクナゲ

シャクナゲ

「信仰」という言葉を聞くと何をイメージしますか。
おそらく多くの方が、キリスト教や仏教、神道のような既存の宗教が頭の中に浮かんだのではないでしょうか。

しかし、信仰と宗教は必ずしも一致しません。

詳しく説明をしましょう。
自分がどこかの宗教団体に所属していて、その教義に賛同し、信じているのであれば、それは信仰です。

しかし、宗教団体に所属していても、教義を知らない、生活や生き方の礎(いしずえ)になっていないというのであれば、それは信仰とはいいません。

たとえば、仏教の○○宗の檀家であり、お盆と正月にお墓参りをしている。しかし、その宗派の教義は知らないし、生き方の指針にもなっていないというのであれば、その人は信仰をもっているとはいえないのです。

それに対し、どこかの宗教団体に属しているわけではないけれども、神またはそれに相応するものを信じている。そして、その教えにもとづいて生きている。というのであれば、それは信仰といえるのです。

たとえば、高く険しい山に聖なるものを見い出し、自分も自然の一部であると考え、自然の摂理に背くことなく、自然と一体になる生き方を心がけている、というのであれば、その人は信仰をもっているといえるのです。

信仰という言葉はあまりにも一般的で普及されているがゆえに、あまり深く考えることがないかもしれません。また、人と話をする時に政治と信仰の話をしないことが、スマートであり、逆にそれらの話をすることはタブーである、という常識があるゆえに、信仰について考えるのがおろそかになっているのかもしれません。

今は人々が築いてきた秩序や日常がおびやかされる、不確かな時代です。

こんな時代だからこそ、信仰とは何かを改めて自分自身に問い直してみてはいかがでしょうか。そして、心の中に清らかさを保ち、人々に深い愛をもって接し、一見、当たり前と思えるような日々が、実は多くの人に支えられていることに感謝をすることが大切なのではないでしょうか。

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神社仏閣は低級霊がいる場所でもある

マンサクの花

マンサクの花

今日は神社仏閣は低級霊がいる場所でもあるので、興味本位や、旅行がてらの気軽な参拝・訪問はなるべく避けて、必要な時に真摯(しんし)な気持ちで訪れた方がいいですよ、ということを書きます。

神社や仏閣は木々に囲まれていて、たとえ都会にあっても静寂につつまれた空間です。寒さも緩んできましたし、癒しを求めて、おもわず散歩したくなるかもしれませんね。しかし、ミディアムである私の目には、神社仏閣はみなさんとちょっと違う見え方をしているのです。どのように見えているかというと、神社仏閣の森や敷地を遠くから眺めると、全体がくすんだモヤに包まれているように見えるのです。

神社を例にあげて説明します。

一口に神社といっても、祀(まつ)っている対象、敷地の構造にも色々な形態があります。しかし、全ての神社に共通していることがあります。それは、神社には結界が張られているということ。そしてその結界が、私たちが住む世界と神聖な世界を明確に分けていることです。これは神社の大小は関係なく、すべての神社がそのようになっています。

しかし、結界を張ったままだと、人が参拝することができませんので、入り口になっているのが鳥居です。

鳥居が三つある神社を例にあげます。
社殿を中心にみて、一番外にある大きな鳥居が一の鳥居。そして、森の入り口にある鳥居が二の鳥居です。一の鳥居と二の鳥居を結ぶ道が参道です。大きな神社の参道の両脇には、飲食店やお土産、名産品を売るお店が並んでいます。

そして、二の鳥居をくぐると、森の中に入ります。森をしばらく進むと再び鳥居があります。この鳥居が三の鳥居です。この鳥居をくぐると境内になり、社殿があります。

この例ですと、三重の結界で神聖な社殿を守っているのです。
実はこの結界が、要注意なのです。

低級霊は一の鳥居の中に入ることができません。
しかし、低級霊が人に憑依した状態だと、この一の鳥居を通過することができます。しかし、三の鳥居を通過することはさすがにできず、落っこちてしまいます。すると、低級霊は境内に入ることができず、かといって、二の鳥居を通って戻ることもできず、二の鳥居と三の鳥居の間を行ったり来たりしています。ミディアムにはこの空間に、いくつもの霊がいるのが見えます。

そしていつの日か、参拝を終えて、帰ってきた人のうち、自分と波長の合う人が見つかると、その人に憑依して、低級霊は俗世間に戻ってくるのです。

つまり、憑依されていた人も、憑依されていなかった人も、参拝を終えた後に、低級霊に憑依されてしまう可能性があるのです。これが、安易な気持ちで神社仏閣に訪れない方がいいという理由です。

ではどうしたら良いのでしょうか。
まずは、神社仏閣を訪れるのはしっかりとした目的があるときに限ること。つまり、回数によるリスクを回避することです。

そして、2つめは、真摯な気持ちで訪れること。
結界(鳥居)で黙礼をする、手水で手を洗うなど、清らかさと敬う気持ちを維持して、低級霊の低い波長とは明らかに異なるよう、自分の波長を上げることが大切です。

なお、お寺の場合は結界がありませんので、低級霊が集まっているのは神社とは事情が異なります。
寺には何かにすがりたい、救いを求めたいという人が来るので、その波長に同調して、低級霊が集まってきているのです。

お寺も必要な時だけに、真摯な気持ちで、自身の波長を高く維持して訪れることが大切です。

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信仰と宗教

信仰と宗教 | カレスティア

ハナミズキ

信仰を持つことは、とても大切だと私は思います。
しかし、信仰と宗教は別であり、似て非なるものだとも考えています。

今日は、「信仰とはなにか、宗教とはなにか」について、私論を書こうと思います。

まず信仰ですが、これについては「○○は○○」という決まりは一切ないと思います。Aさんがもっている信仰とBさんがもっている信仰は全く違っていて良いと思います。

では、私がもっている信仰について、いくつかをとりあげて簡潔に説明します。
・「人は生かされている」ということをいつも感じつつ、感謝と謙虚でいること
・「自分はやるべきことがあって、この世に来た」ということを念頭に置き、そのための人生を送ること
・「人(他人と家族)のためになること」を日々行う
・そして「愛に生きる」ことを目指すこと
です。他にもいくつかありますが、省略しました。

「誰に生かされているのか」つまり、神とは何であるかを知りたいと渇望していた時期もありますが、必ずしもそれは必要ではなく、単なる知識の欲求でしかないと今は自粛しています。

信仰とは何かを、より普遍性のある言い方に変えるなら「自分の中に、人生を賭(と)するルールを作り、それを守り、さらなる高みを目指すこと」と表現してもよいかもしれません。

そういった「信仰」に対し、「宗教とは、安易な答えを授けてくれるところ」だと私は考えています。

宗教は
「神は○○です」とはっきり答えてくれます。
「○○を守っていきましょう」「○○をしてはいけません」といった戒律とタブーもあって、ルールを提供してくれます。
そして、「神に祈りましょう。そうすれば、救われます」と、いとも簡単に救済までしてくれます。

しかし、それって本当なのでしょうか。

神様って、宗教の数と同じくらいたくさんいるのでしょうか?

戒律やタブーは本当に神が言ったことなのでしょうか?
宗教の幹部が言い出したことに過ぎないのではないでしょうか。宗教が誕生した初期の頃と現在では戒律が変化している、なんてこともよくあります。

祈っているだけで救われるのなら、この世に悲しみも、苦しも、痛みも、もうとっくの昔になくなっているはずです。

私が考えるに「宗教は初心者向け」なのだと思うのです。

戒律やタブーが存在しないと何をしでかすかわからない人たちや、何かにすがって生きたい人たちにとって、宗教は一定の役割を果たしています。

しかし、初心者向けの教えに、いつまでもしがみついているのは考えものです。

集会に足しげく通って、教典を朗読し、歌を歌って、指導者の説教を聞く、これらをどんなに繰り返しても、救われない自分がいて、信者同士も愛でつながっていなくて、もやもやしたものを感じている。

もしそう感じているのだとしたら、あなたは宗教から卒業の時が来たサインかもしれません。

魂が成長したら、入門書は捨てて、次のステップに移ってみてはいかがでしょうか。

家族が宗教にどっぷり浸かっていて、大変な思いをしている。
そういったときはスピリチュアルカウンセリング で指導霊に相談してみてはいかがでしょうか。
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