事故や事件で他界する子供

花のつぼみに霜がおりていました

今日の記事は子供の死に関するものです。決して楽しい話題ではありませんので、気になる方はこれ以上読み進めないことをお勧めします。

人の他界は基本的に年長者から順に行われていきます。しかしなぜ、罪もないような幼い子たちが命を落としていくのでしょうか。今日は事故と事件に限定して、話を進めていきます。

まず人の肉体は思っている以上に脆弱(ぜいじゃく)であるということがあげられます。

大人だったら十分に耐えられるようなことでも、幼い体には相当なダメージを与えます。また、大人であれば経験的に危ない、このままではいけないと判断できることも、幼い子には経験が少ないため、うまく行動できないことがあります。

たとえば、暑い車内にエンジンを切ったまま取り残された場合、大人であれば少々の我慢はできます。そして危ないと感じたら、車から出て、木陰に避難することもできます。しかし、幼い子供には暑さにどこまで耐えられるのかがわからず、気がついたときは熱中症をおこして、体が動かなくなってしまいます。

次に指導霊からのサインを見落とすことです。
再生の計画とは異なる危険が迫っているときは、指導霊は危険を回避させようと様々なサインを送ります。しかしそれを見落とすことがあります。

たとえば、子供「出かけたくない」と大騒ぎをしたり、だだをこねて泣き叫ぶといったときに、親は何とかなだめすかして、予定通りにことを済ませようとしてしまいます。親の方も物事がうまく進まない状況が発生しているのに「約束があるから」と強行してしまいます。

今まであげた例は、再生の計画から外れている予定外のできごとです。
これから述べるのは再生の計画通りの時です。

過去生の生き方によって、被害者になることを体験する場合もあります。

たとえば過去生において、無力な子供の命を奪い、本来であれば、その子がたくさんの体験をし、大人になってからしたかったことをすべて取り上げてしまった。その無念さを体験する必要がある場合です。

ここで注意して欲しいのは、過去生で問題を起こしたので、被害者の体験をすることにより、その罪が帳消しになるということありません。生きることを閉ざされた絶望や苦しみを体験することで、自分がどれほどのことをしたのかを理解することに意味があります。贖罪(しょくざい)への道のりとしては、わずかな一歩に過ぎません。

親の過去生のため、自らが犠牲になる子もいます。

親が過去生で、子供の命を奪ってしまった。その罪の深さが、再生を繰り返しても理解できない。そんなときは、無償の愛の心をもった子が、自らの命を犠牲にして、親に理解させようとすることがあります。そして、親の立場として愛しい我が子を失うことが、どれほどの悲しみと苦痛を与えるのかを体験させることがあります。

自らの罪で命を失う、親のために命を失う、どちらの場合も、共通した二次課題があります。それは、家族は相手を赦(ゆる)せるかということです。

事件なら加害者、事故なら過失者。そういった人のことを憎むでしょう、罵倒するでしょう、あんなことさえなかったらと後悔もするでしょう。しかし一時は憎んでも、罵倒しても、最終的には赦さなくてはいけません。

「赦す」とは、一切の条件をつけることなく、相手と相手の罪をゆるすことです。
誠意をもって謝罪してくれたから、慰謝料を払ってくれたからゆるすというのは「許す」です。「赦す」と「許す」は、似て非なるものです。

子供が他界するには様々な理由と意味があります。そして、必ずそこには学ぶべきこと、残された家族には生き方を変えるべきことがあるのです。

理不尽だと思えるような悩みがありますか?
でも、重大な意味があることかもしれません。スピリチュアルカウンセリングで、ご自身の指導霊に尋ねてみてはいかがでしょうか。
詳しくはホームページをご覧ください。



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