茨の道

今日は魂の浄化において、茨(いばら)の道は必要なのかについて書きます。
結論を先に述べますと、茨の道は必須であり、避けて通ることができません。

地球にいる全ての人は、魂の浄化を目的として生まれてきました。これには例外がありません。

「魂の浄化」と聞くと、修行のようなものを思い浮かべる方も多いかもしれません。肉食を避け、滝に打たれ、粗末な衣服で座禅と瞑想を繰り返し、欲望に打ち勝つ、こういったストイックな荒業をイメージされた方も多いと思います。

また中には、人から虐(しいた)げられ、貧困にあえぎ、深い悲しみに落とされる。そういう過酷さから、何かをつかみ取るといったことをイメージされた方もいらっしゃると思います。

しかし、魂の浄化における茨の道はこういったものではありません。茨の道の過酷さはあくまでも「主観的」なものであり、「客観的」なものではありません。

例をあげて説明しましょう。

Aさんは過去生において、物分かりの良い両親のもとに生まれ、なに不自由なく育ちました。家には使用人もいて、Aさんのためになんでもしてくれました。そういった環境と、もともとの性格もあいまって、Aさんは全てを自分中心に考えるようになりました。そしてついには、人の気持ちが理解できない人になってしまいました。

霊界での反省をふまえ、今世では人の気持ちが少しでもわかるようになろうと決意しました。そしてパートナーとして、はっきりとものを言う人を迎えることにしました。

大人になったAさんは恋に落ち、結婚をしました。
しかしパートナーはAさんに対して口出しすることが多く、あれをしなさい、これをしてはいけません、と口やかましく言います。

Aさんは毎日が束縛されているようで息が詰まりそうです。いっそのこと別れたいとも思うのですが、子供もまだ幼いですし、自分には経済力がないのがわかっているので、離婚することもできません。

そしてAさんはこうため息をつきます「やらなければいけないことばかりで、少しの自由もない。何が楽しくて生きているのかがわからない。毎日が辛くて仕方がない」と。

でもこのAさんの生活を見て、他の人は別の感想を持つかもしれません。「うちのパートナーだって口やかましいよ」「私も家のことをやって、子供を送り出して、仕事に行って大変よ」でも、「毎日、楽しいよ」って。

Aさんが感じる不自由さ、辛さは、他の人にはごく当たり前のことだったのです。

Aさんのパートナーが口を出していたのは、Aさんは人を思いやる気持ちが欠けているので、「そんなことを言ってはいけないよ」「もっとこうしなくちゃ」とさとしていたのです。しかしAさんはそれらの言葉をうるさいと受け取っていました。そしてなぜパートナーがそんなことを言うのかを考えることができていませんでした。

茨の道はあくまでも当人にとっての過酷さであり、辛い、苦しいは主観的なものです。それを乗り越えてきた人から見たら、実にどうということもないのです。

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