信仰を持つことは、とても大切だと私は思います。
しかし、信仰と宗教は別であり、似て非なるものだとも考えています。
今日は、「信仰とはなにか、宗教とはなにか」について、私論を書こうと思います。
まず信仰ですが、これについては「○○は○○」という決まりは一切ないと思います。Aさんがもっている信仰とBさんがもっている信仰は全く違っていて良いと思います。
では、私がもっている信仰について、いくつかをとりあげて簡潔に説明します。
・「人は生かされている」ということをいつも感じつつ、感謝と謙虚でいること
・「自分はやるべきことがあって、この世に来た」ということを念頭に置き、そのための人生を送ること
・「人(他人と家族)のためになること」を日々行う
・そして「愛に生きる」ことを目指すこと
です。他にもいくつかありますが、省略しました。
「誰に生かされているのか」つまり、神とは何であるかを知りたいと渇望していた時期もありますが、必ずしもそれは必要ではなく、単なる知識の欲求でしかないと今は自粛しています。
信仰とは何かを、より普遍性のある言い方に変えるなら「自分の中に、人生を賭(と)するルールを作り、それを守り、さらなる高みを目指すこと」と表現してもよいかもしれません。
そういった「信仰」に対し、「宗教とは、安易な答えを授けてくれるところ」だと私は考えています。
宗教は
「神は○○です」とはっきり答えてくれます。
「○○を守っていきましょう」「○○をしてはいけません」といった戒律とタブーもあって、ルールを提供してくれます。
そして、「神に祈りましょう。そうすれば、救われます」と、いとも簡単に救済までしてくれます。
しかし、それって本当なのでしょうか。
神様って、宗教の数と同じくらいたくさんいるのでしょうか?
戒律やタブーは本当に神が言ったことなのでしょうか?
宗教の幹部が言い出したことに過ぎないのではないでしょうか。宗教が誕生した初期の頃と現在では戒律が変化している、なんてこともよくあります。
祈っているだけで救われるのなら、この世に悲しみも、苦しも、痛みも、もうとっくの昔になくなっているはずです。
私が考えるに「宗教は初心者向け」なのだと思うのです。
戒律やタブーが存在しないと何をしでかすかわからない人たちや、何かにすがって生きたい人たちにとって、宗教は一定の役割を果たしています。
しかし、初心者向けの教えに、いつまでもしがみついているのは考えものです。
集会に足しげく通って、教典を朗読し、歌を歌って、指導者の説教を聞く、これらをどんなに繰り返しても、救われない自分がいて、信者同士も愛でつながっていなくて、もやもやしたものを感じている。
もしそう感じているのだとしたら、あなたは宗教から卒業の時が来たサインかもしれません。
魂が成長したら、入門書は捨てて、次のステップに移ってみてはいかがでしょうか。
家族が宗教にどっぷり浸かっていて、大変な思いをしている。
そういったときは、スピリチュアルカウンセリングで指導霊に相談してみてはいかがでしょうか。
詳しくはホームページをご覧ください。
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